人間が人間らしく意味ある仕方で生き、 そして死んでいくために、根源的な自由、 精神の自由というものが不可欠だろうと思われる。 そこで宗教の目的は −−− あえて私の考えで言えば −−− そういうもっとも深い意味で霊的な自由、 それをキリスト教的に言えば罪からの自由と言うのであろうか。 あるいは仏教的に言えば煩悩からの自由と言ってもよいと思うが、 そのようなもっとも深い意味における霊的な自由を自覚させるところに、 宗教の目的あるいは役割というものがあるのではないかと思うのである。 解放の神学は、そういう意味でのもっとも深い自由、 いわば形而上学的な自由の秘義を明らかにする代わりに、 もっぱら外部的な機構や体制からの解放を声高に叫ぶ、 という点に特徴があると思われる。 しかしそういう解放の導く先は、結局のところ、 新しい形態での奴隷のくびき −−−聖パウロが訓戒を与えたような意味での奴隷のくびき−−− に繋がれる結末ではなかろうか。 そのように思われてならないのである。
〜 『解放神学』 〜